¡¡¡ Aqui !!!

放浪が終わっちゃったので、日本でまとめていくスタイルで確定しました。

第5章 ポルト—「何ら関係のない世代」から—

 リスボンを15時頃にバスで発ち、3時間ほど揺られて18時半にはポルトに着いた。本当はリスボンから夜行バスでセビーリャに行く予定を立てていたが、「地球の歩き方」にも載っているくらいのルートにも関わらず、なぜかネットで”Lisboa Sevilla bus”と検索してもヒットしてくれない。ヨーロッパ内をインターナショナルに走るバスを検索できるサイトで”from Lisboa”と打ち込んでも、”to Sevilla”という候補が存在しない。セビーリャからスペイン入りし、数日で南下、ジブラルタル海峡を船で渡ってモロッコに行き、シャウエンやいくつかの北岸の街で数日過ごそうと考えていたのだが。どういうことや。走っているという話だけがあって、いま現在走っているのかわからない路線に賭けてまで宿を取る勇気はなかったので、当初断念するつもりだったポルトへ行くことにした。そうと知っていれば大阪の家の近所のスペインバルで流してくれていたポルトの特集、ちゃんと見といたのにな、と苦々しく思う。

 

ポルトのバスターミナルは街外れだった。バスを降りて、とりあえず明るい方へ歩いてみた。光の差し込む方からバスが入ってきたので、そのまま道路に面していることはわかっている。コンコースがないことを不思議に思いつつ、左に曲がると、階段が15段ほど積まれていた。どうやらバスターミナルの玄関口はこちらだったらしい。貧しそうな格好のおっちゃんがその階段の中段、横軸的には少し手前寄りに腰掛けていた。右手で頭を抱え、左手のバケットを食べている。階段を覆うように建物があり、さらに階段を上りきったその奥は中庭で日が差す構造だったから、おっちゃんの後ろより光が当たる形となっていたので、顔ははっきりとは見えなかった。

階段にはバケットが細かく千切れたものが散らばっていた。バケットを食べてそのカスが落ちた、そんな風な落ち方ではなかった。故意に千切ったのだろう、おそらくハトにやったのだ。ハトって世界のどこにでもいるものなのだろうか。ちなみに、日本でよく見かける、ハトと言われて想像する彼らは、正式には「ドバト」と呼ぶそうだ。もちろんここで見たのもドバトだった。

ハトにエサをやっているように思っていたが、よく見ると、バケットだけがおっちゃんの周りに散らばっていた。なぜハトがいないのか。おっちゃんにばかり気をとられていた。視線をおっちゃんの奥に移した。

じっとりと目を動かして、階段の端まで視界に入った瞬間、目の筋肉が一気に固まった。ハトが臥していたのだ。一度、顔ごと視線を外した。ため息も出た。再びしっかりと確認した。今度は血もはっきりとわかった。

こういう迎え入れられ方をするとは思ってもみなかった。カラスについばまれたのだろうか。非常に居心地が悪い。とりあえず仏式に則り、合掌して弔っておいた。

おっちゃんが、また目に入った。

カラスか、ハトか。一体何の違いがあって、それに生まれたのだろう。自分の羽が漆黒だったとしても、ハトをついばんで笑えるやつではいたくないと思う。

 

 

翌日、路線バスにしばらく揺られて海辺へ出かけた。バスを降りて見える景色の中で、空と海とが、その青さを競い合っている。サングラスをしていない者の方が異端であるくらい日差しはきつく、スカッと晴れた空だった。空気は乾いているけれど、浜だから少し肌はじっとりとしてくる。潮風。この香りが好きだ。数日前に訪れたユーラシアの最西端、ロカ岬と違って、平穏に海を眺められる。確かに暑さは感じたが、心地よい風を浴びながら、浜とアスファルトの境の木陰の芝生に腰を下ろして、しばらく読書に耽った。

女の子は、難しいな。<*1>

 

その晩、眠りにつく前にある学友にLINEを送信した。気の置けない友人とあって雑談では多めの通知を置いてしまうし、既読がつく早さと返事の早さとはほとんど一致していない。そもそも緊急を要さないLINEの返事を急かされることも嫌なのだ。さらに時差は8時間あるので、真夜中に返事を送るのも気がひける。この晩も、そんな感じで、夕方に一度来ていたメッセージの確認を行って返事は後回しにし、寝る前に返信したのであった。スマホを寝かせて自分も寝ようとしたが、珍しく彼女から早急な返事が来た。閉じる前だった。

高槻市地震があった」まじで?うちの近所か、あるいは、じいさんとこの近所かな?
「京都でも震度5」大丈夫かなあ。

目をしばたたいた。未だにうつろな意識で、さらっと文字を見ていた。

すると、画像が届いた。

見慣れた阪急の黒い「いばらきし」の駅名看板のその後ろ、天井から吊り下げられていた車種と行き先案内の白縁の電光掲示板が、その支柱の片方が完全に外れたせいで、人の目の高さにまで落ちてきている。

目を疑った。今度ははっきりとした意識で、じっくり文字を読んだ。

いったい、どういう写真なんや?茨木の街で、何が起きた?

ポルトでは、6月18日になったばかりだった。茨木では朝の8時を過ぎたくらいだ。17日の間は、横になって半目でスマホを触っていた。18日になってすぐも、まだそうだったはずだ。いま、あぐらをかいていた。外からシャワーの音が響いている。組んだ腕の下で、鼓動が感じられた。深呼吸を繰り返しても収まる気配はない。W杯の再放送で盛り上がる声も聞こえる。

そして、意識がはっきりするにつれて、再び、思い知らされたことがあった。ああ、ぼくにはどうしようもないんやなあ。家族の無事を確認して、現状最も悪くない気分になったところで、寝ることにした。フィリップさん<*2>は元気だろうかと、ふと思った。

 

翌朝、8時頃に目が覚めた。日本では16時くらいのことである。発生から8時間も経過していたので、被害の大枠も掴めてきた。震源地は本当に近く、家の中の被害も大きかったようだ。小学校入学以来未だに使い続けている勉強机の本立てや、その頭上の収納スペースに立てていた教科書、ノート、クリアファイル等はすべて床に落ちて山ができており、それはまるでアメリカンフットボールでラン攻撃が不発に終わった際に、両軍のラインマンが折り重なっているような光景だった。落下物は親が段ボールに詰めておいてくれるらしく、本棚がなくて床に平積みになっている本の置き場所が期せずしてできてしまったなあと気楽なことを思った。そして、大きくため息をついた。

 

街を散策し、晩御飯を食べ終えてから、近くのコインランドリーへ出かけた。自らの衣類はすべてドラムに放り込んだ。昨日の昼下がり、浜辺の木陰の芝生で読んでいた小説の続きを読むべく本をお尻のポケットから取り出した。そのとき、ポケットに引っかかって本を落としてしまい、さらに残念なことに、挟んでいたしおりは本から滑り落ちてその下敷きとなっていた。本としおりを拾って、白いベンチに座って、これまでの回想になればええなあと思いつつ、ぱらぱらっと、おもむろにページをめくった。開く窓はなく、風通りは皆無なせいで、乾燥機の空気がどうしてもこもるのか、どうにも汗が噴き出てくる。少し苛立ちながら、ようやく読みさしの部分までたどり着いた。

突如、ドアが開いた。「Hello.」アジア系のハンサムな兄ちゃんだった。「Hello.」声も渋い。
「ごめんください、どの洗濯機が使えるか教えてくれません?」
どれも中に衣類が入っていたが、1つは自分が使っていて、他の3つはすべて着いた段階でもうすでに動いていなかったので、その旨を伝えた。
「それにしてもコインランドリーって暑いよね。そうは思わない?」
「せやね、ただでさえ日焼けで体が火照ってるのに。」
「いや、ほんと、今日もサーフィンしてたんだけど、身体中どこを取っても真っ赤だよ。」
彼はドラムの中から誰かのシーツを取り出し、台に置きつつ話を続けた。
「君はどこから?ぼくは韓国からだけど。Journey?Trip?」
「ぼくは日本やで。まあJourneyなんちゃうかなあ(Umm, I think…it’s maybe Journey.)。リスボンからイスタンブールへ、これから2ヶ月かけてヨーロッパを見てまわるつもりやわ。自分は?」
「ぼくもJourneyの途中さ。」
どうりでフランクに話せるわけやわ。会話はより弾みがついた。乾燥機を一緒に使うことにした。

また、ドアが開いた。今度は背の低い、正装したおっちゃんだった。やけに大きな袋を持参しているあたり、どうにもずっと入りっぱなしのシーツの主ではなかろうか。そう思うが先か後か、彼は乾燥機にあったシーツを回収してから、洗濯機の中にあったシーツを乾燥機に放り込んで、
「これ邪魔だった?ごめんね。」

とぼくらに言った。
「すごく多いね、ホテルで働いてるの?」
「ああ、そうさ。その辺だよ。毎日こうランドリーに来てるけど、よく君たちはこんな中で待てるねえ。」
「行くあてもすることもあらへんのよ。ここなら本は読めるしネットも使えるし。暑さは、耐えるしかないけど。」
「ああ、そういうことか。ところで、君たちは兄弟かい?」
「いや、違うよ。ぼくは韓国人で、彼は日本人さ。」
「え、そうなの?仲が良さそうだから、てっきりそうだと思ってしまったよ。隣国だからかな。ま、私は引き上げたこれを持って、私を待つ仕事のもとへ帰るよ。Boa Noite.(おやすみ)」
Boa Noite.」
隣国やから、か。

 

 

洗濯も乾燥も終えた。ドアを開けて、ランドリーから出ると、伸びをしたくなった。外は涼しかった。

斜向かいにレストランがあった。ぼくらはなんとなくもう少し話していたいような、「なあなあ」な雰囲気だった。おあつらえむきな、とはこのことだろう。この幸運にあやかって、店に入った。

流れている曲は、数少ない、知っている曲だった。敷居が下がった気がした。

 

ビールとフライドポテトを注文した。乾杯して、たわいのない話をした。ちらっとテレビを見ると、トランプ大統領の姿が見えた。ニュースの内容はわからないんだけど。

1週間前に、米朝首脳会談が行われている。トランプが直前になって反故にしようとしていたなあ。分断の流れを感じられる今日とあって、ある意味でのそれへの逆流となれば、と期待していた。緊張の、分断の緩和が促進される可能性が見えているのなら、開いてほしいと思っていたし、結局実際に開かれたのは、まず喜ばしいのではないか。

 

現代を考えるうえで、歴史は欠かせない。朝鮮半島の歴史には、いやしくも日本の影響は計り知れない。——隣国だから。
「なあ、ジヒョン。」苗字の方が呼びやすければそっちでもいいよ、と言われていたけれど、なんとなく名前で呼びかけたかった。「ええっと……」
「はいよ、フライドポテトだよ!」
次の言葉を探している隙に、店員の兄ちゃんに差し出された。少し、ほっとした。語学の問題ではなかった。だから、少し自らを嘲笑った。ぼくに相反するぼくを嘲った。小田実<*3>の精神はどこへいったのか。もっとも、父からもらったその本は、父が幾度も読み返したのか、年季が入っていたぶん、読んでいる最中にばらけて読めなくなって、結局3割くらいしか読めず仕舞いとなったが。

木製のカウンターに置かれたビールを一口飲んだ。ジョッキには水が滴っていた。
「ああ、これ使ってよ!渡しそびれてた、ごめんね。」さっきの兄ちゃんが、カウンター越しにコースターをくれた。よく見ると、ジョッキは、足元で水で円を描いていた。

少し沈黙が続いた。ポテトに舌鼓を打っている、ようには見えない。ビールが苦かった。ひとりでに、息苦しさを感じた。
「そういえば、君は大学生だったよね?」ジヒョンが先に問いかけてくれた。
「そうやで。来年大学に帰って、スペイン史で卒業論文を書くつもりにしてる。」
「ぼくは大学卒業を目前に控えているんだ。今23歳だからね。」
「歳近いやん、ぼくは21歳やわ。」
さっきの兄ちゃんがまた目の前に現れた。ビールを注いで、ぼくの右隣に差し出した。ウェイターがそれを受け取って、どこかへ持って行った。兄ちゃんは手が空いたのか、君ら兄弟か、と聞いてきた。コインランドリーでの会話を思い返しつつ、今回はぼくがぼくらの関係を伝えた。
「ああ、そうなのか!歳も近いし、似ているからそうかと思ったのに!でも、あの辺の国々の人って、似てるよねえ。よく間違えちゃうよ。」
「まあ実際似てるよね。でも、実は、ぼくらから見れば日中韓の違いは結構分かるんだぜ。」
そら、隣国やから。きっと、ポルトガル人なら、スペイン人との違いもわかるだろう。


「よく兄弟に間違えられる日だよなあ。」
「まあ、実際、東アジア系という意味では似てるしなあ。一緒にいたら、大抵の人は同じ国の人やって思うやろ。」
「しかも歳も2つしか変わらないわけだしな。」

ジョッキはすでに空になっていた。


「そもそも、」
あれだけビールで潤した喉なのに、声は少し掠れながら出てきた。
「歴史を見ていけば、ぼくらには、兄弟のような交流があったんやから。」
「そうだよね。」

店内に響く音楽が、やけにはっきりと身に沁みる。

 

しばらく、厨房を眺めていた。
「ぼくたちの国の間には、悲しい、苦しい歴史があるよなあ。」
「ああ、かつて、日本は韓国を支配していた。ひどいこともした。それは、残念ながら、ほんまのことや。」
「とはいえ、ぼくらはいま、こうして酒を酌み交わしている。ぼくは、君に会えたことを嬉しく思っているよ。良い友人になれるんじゃないかって、思うよ。」

 

——その人、ひとりひとりの人を見ればほとんどがええやつで、素敵なやつばっかしやがな。いちいちあそこが嫌いやなんやっちゅうのは、政治のややこしいことをそこに絡ませるから、そうなるんや。人を見ろ、人を。この国の人間やからあかん、なんて、ほんまに最低や。
お世話になっている方の顔とともに、この言葉が不意に蘇った。大学の近所にある、そのおっちゃん(この表現がしっくり来るのだ)の持つバーで、おっちゃんから聞いた言葉だった。

本当に、そうだと思った。

 

——そして、いま、本当に、そうだと感じる。
「ぼくたち、日本がしてしまったことは、その事実は絶対に変わらへん。それについては、ほんっまに、あかんことをしたと思う。」
そして、これは僕から言える義理ではないかもしれないけど——
「それでも、いち人間同士で、友人になれてること。ぼくはもう友人や思ってる。こんな感じで、まず、普通に友人になっていって、その先に、その歴史を包括した、新しくて深い、本当に信頼し合える、国同士であえたらなあ、なんて。」
次の言葉がすんなり出て来ない。そこで、日本語と英語との両輪でものを考えていたことに気がついた。言いたいことはわかっている、けれど、言いたい言葉がわからない。なんだか暑い。酔いが回ってきたのかな。ショート寸前、大きく頷いて、ジヒョンが口を開いた。
「ぼくも、それくらいに良好な関係を結べたらって、思うんだ。」
シンプルな言葉だった。母語じゃない同士、そもそも百パーセントのコミュニケーションなんてできない。できない?——言葉だけが、ものを伝えるわけじゃあない。
「そう思ってるんなら、ぼくらで作っていこ。」
「そうだね。まずはここからだ。」

 

ここからは、何を話したかあまり記憶にない。

ただ、目頭の熱さ、体の火照り。それらの感覚は、冷たいシャワーを浴びても流れなかった。

 

 

 

 

_注_

*1女の子は、難しい:この時読んでいたのは、重松清「一人っ子同盟」。この女の子とは「ハム子」という主人公につっけんどんな態度を取りつつも、なんだかんだで優しいヒロインの子。

*2フィリップさん:バレンシアにてビールをおごってくれたおっちゃん。第3章にて詳述。

*3小田実の精神:作家・小田実の著作のタイトル、「なんでも見てやろう」という気持ちのこと。出国前に父に渡され、この本を携えて放浪していたが、2割程度の部分までしか読めていない段階で文庫本のページがばらばらになってしまい、読めなくなった。ちなみに、父には報告していないので、父はこのことをおそらく知らない。

 

第4章 リスボン—かつてに追憶う街—  

滞りすぎました。年明けちゃいましたね。ぼちぼちやっていきます。

サブタイトルはルビ打つ予定でしたがやり方わからなかったので諦めました。(ボケの解説みたいでしたくないですが)「追憶う」で「ものおもう」です。

一応第2部開始という形ですね。これから2ヶ月の周遊記になります。ただ書かない街が結構あるので何本になるかは未定です。

 

さて、そんなこんなでようやくリスボン編開始です。もう半年以上も前やなんて信じられません。

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丸1日の移動を経て、ようやく宿の最寄りの地下鉄の駅に着いた。焦がれたリスボンの街に着いた喜びに、心がハネている。地上に出て、あらかじめスクリーンショットで保存しておいた地図ににらめっこを仕掛けた。「地図はん、いけずやわあ。なぁんにも伝えとくれはらへん。」とは言いつつ、なんとなしに目星をつけて歩き始めた。いま歩いている通りは、白で堂々たる威厳を放つ建物に挟まれた、急勾配の坂であった。坂の街リスボンとあって、この通りのみならず、右手の通りも左手の通りも坂になっていた。少し歩けば左側には公園あり、青々とした芝生の坂を転がり落ちて、無邪気な笑い声を響かせる半袖姿の子供達がいた。6月とはいえ、風は少し肌寒く、子供の強さを感じた。公園の針は、午後8時をさしていた。

 

そんなこんなで宿にたどり着いた。チェックインを済ますと、部屋は”4th floor” ということで、階段で登ること1、2、3、4。この国でもGround Floor という日本人泣かせな数え方を使うので、我々風に表すなら、5階である。10kgを背負い、7kgを抱え、息を切らしながら部屋に入った。エレベータという発明が、どれだけぼくを甘やかしていたことか。それだけの重労働を課されたうえに、部屋の風通しはよろしくない。当然のことながら、汗にまみれていた。窓を開けてみると、肌寒かった風が心地よく感じられた。すぐそばの通りを見下ろすと、先ほど歩き回って最後に曲がった交差点には、銅像が立っている。誰なのかはここからではわからない。胸を張って上を見上げているが、彼はどこを見据えているのだろう。布団に入ってからしばらくして、眠気に誘われた。開けっ放しの窓からは、時折車のエンジン音が聞こえたが、そのうち何も聞こえなくなった。

 

一夜が明けた。うまく朝早くに目を覚ますことができた。どうも時差ぼけは回避できたらしい。昨晩買い物に行けなかったので、とりあえず朝食を摂ろうと思い、カフェを求め昨日とは違う方向へ歩き始めた。その通りはゆるやかな曲線を描いており、淡い桃色、淡い青色、淡い黄色と、それぞれやさしい色で塗りあげられた家が立ち並んでいて、白みがかった空の青さえも、彼らが塗ったのかもしれない。その奥を見ると、鐘が吊るされているのが見えた。きっとあそこは教会なんだろう。通りで見える車はすべて駐めてあるものだ。まるで車の展示即売会が開かれているように。ただ残念ながら、誰も買わないだろう。そんなものばかりだった。

 

明くる日。前日、市電28番に乗り、たくさんの人に押されて揺られて来たあの丘の上へ、この日も来ていた。ふらふらと市内を歩き回っているとたどり着いてしまっただけだが、昨日と違いなにやら祭りのかおりがする。頭上にはカラフルなロープが張り巡らされ、店の前のテラスはどの席も埋まっており、遠くからはロックテイストなサウンドが響いている。今日の広場は別の広場のような雰囲気を醸し出していた。

その喧騒の中に踏み込んでいるうちに、徐々にあたりが暗くなってきた。ステージに遭遇すると、見た感じ地元の大学生らしい若者が演奏していた。女性ボーカルの男女5人組のバンド。彼らの曲に合わせ、リスボン市民は盛り上がりを見せる。確かに力強さはあるが、一方でどこか脆さを感じさせる彼女のハスキーな声。後ろの人に「盛り上がっとるかい」という感じで肩を叩かれ、はっとした。返事もそこそこに、再びステージを眺める。顔は見えない。ただ、ただ、美しかった。彼女ほどリスボンを感じる歌手はないだろう、と勝手に決めつけた。

気がつくと太陽の面影はほんのりと遠くに紫色に残るのみだった。彼女の声と祭りの雑踏を背に、軽い足取りで宿へ戻った。宿の周りは相変わらず静かだ。宿のドアノブに手をかけようとしたとき、ふと銅像の彼を思い出した。手前の交差点まで戻って、顔を合わせた。ポルトガル語でマガリエスと読むのだろうか?どうもかの有名なマゼランらしい。

 

大航海時代、栄華を極めたポルトガル。このリスボンの街は、いったいどんな風貌をしていたのだろう。海に想いを馳せる街で、誰しもが夢見た世界周航。彼も、恋い焦がれていたことだろう。船に揺られ続ける日々の中で、針の指す方角に、何を期待していたのか。最期の瞬間に、思ったことは何だったのか。

その羅針盤を、一度見てみたかった。いまは、いったいどこを指しているのだろう。

 

翌日、少し街から外れたところのベレン地区へ。ここはその栄華極めたるポルトガルの記憶を留める建物が多い。ジェロニモ修道院ベレンの塔、発見のモニュメント。宿の近所のバルで話を聞くところによると、ポルトガル銘菓「パステル・デ・ナタ」の発祥もこの地区らしく、その発祥とされる店、”Pastéis de Belem”もある(のちに調べたところ厳密には最初に商品として販売したのが、ということらしい)。そのおっちゃんにとても推されていたので、とりあえずその店を目指した。人の出入りの多さと青い軒が目印だと聞いていたおかげで、路線バスからそこを発見できていたので、迷うことなく店に行くことができた。

店の前には、赤子を撫ぜるように、甘い香りが広がっている。中に入るとコーヒーの香ばしい匂いも漂う、香りのデュオが奏でられる。目を閉じる。深く息を吸う。店内の明かりは程よい調節がなされている。店内の装飾も良かった。あんぐり口を開けたまま、前を見ると、目の前に並んでいた人がいなくなっていた。店員の表情にほんの少しだけ曇りが見えた。そうだ、ここは繁盛しているお店なのだ。慌てて注文して、受け取ってから外へ出た。ずっと浴びていたあの幸せな香りが、いま、ぼくの手の中にある。ナタをひとつ、つまんだ。サックリしたパイ生地に卵のクリームの味。うん。うまい。すかさず翌日以降の朝食にと帰りにスーパーでナタを買ったが、それはまた別の話。

 

残りの幸せはそのままリュックに放り込み、ふらふら歩き始めた。修道院とその隣に併設されている博物館を堪能して、発見のモニュメントの前まで来た。真下まで来ると、改めてその迫力とその見下してくる角度に、圧し出されてしまったようにため息をついた。エンリケ航海王子を先頭に、どこに誰が、まではっきりとはわからないが、ヴァスコ・ダ・ガマを始め、マゼラン、バウトロメウ・ディアスなど世界史の授業で耳にしてきた名だたる冒険家たちもいることだろう。聞くところによると、フランシスコ・ザビエルも列席しているようだ。

 

エンリケ航海王子は斜め上を向いている。他の人たちは後ろから、船の舳先を我先に望まんとする、そういう姿に見える。最初は気持ち良くみていたが、途中で息苦しくなった。右の掌は赤く、少し爪の跡が付いていた。気がつくと目元が熱くなって、涙のプリズムを介して世界を眺めていた。ここでも、針に目を輝かす者たちがあった。この街に憧れたのは、そのためだろうか。

 

発見のモニュメントの前には、上等な石で世界地図が描かれている。日本列島の脇には「1541」と記されている。かつて、彼らは、世界に進出しはじめてから、50年かけて、ついには「極東」に到達した。それから477年。ぼくは、その「極東」の大阪を出発してから、わずか27時間で、「始点」に帰ってきた。憧れていたリスボンの街は、ぼくでさえ来られるようになった。地面にしゃがんで、左手で大阪に触れる。じっくり息をすると、血の巡りだけが聞こえてくる。しばらく、そのまま目を閉じて、右手を左胸に当てていた。憧れていた街の空気が、いま、ぼくを生かす。

 

水を飲もうとリュックを開けた。そのとき、ナタの甘い匂いがした。ささやかに、あの店の匂いが、音が、蘇ってくる。再び重なり合って。羅針盤は、きっと新たな方角を示す。すぐにではなくとも。

 

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読んでいただきありがとうございました。次はポルトです。

coming soon...(来るとは言ってない)

 

第3章:バレンシア—病み上がりの夜中に—

グラナダを出てから帰国まで。今回は普通に時系列で書いています。

前半は単なる体調不良の地獄の記録です。正直ふざけて書いてたら間延びしちゃったので最初から2000字ほどは適当に流し読みしてください(笑。

後半は、フィリピン出身のおっちゃんに出会ったくだりです。

たった2週間とわずかな期間の旅でしたが、一応ここがひとつの区切りですし、大げさに言えば第1部終了の章ってとこでしょう。では、どうぞ。

 

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グラナダでは3日間過ごしたのち、次に向かうはバレンシアグラナダバレンシア間は1回で移動するには少し長すぎると感じたため、アリカンテで1泊を挟み、バレンシアへ。バレンシア近郊のアルコイという小さな村で開かれる中世レコンキスタ期の戦いを再現した祭りを観覧しに行く拠点としたかったのだ。

 

卒論の内容は中世スペインに関することで書きたいので、旅の序盤のハイライトになるかなあと思っていた。しかし、アリカンテ行きのバスに乗った段階で、どうも調子がおかしいことを察し始めていた。アリカンテに着いた時には熱っぽさも増し、体も重い。ただ非常にラッキーなことに、今日の宿はシングルルームだ。さっさと宿へ向かおう。そんなことを考えつつ荷物を背負いながらしばらく歩いていたのだが、どうにも宿が見つからない。これはいわゆる迷子だ。なにも今日でなくても、とは思ったが、泣きごとを言っている余裕すらない。とにかく大学で培われたなけなしのスペイン語力と折れないめげないAguilalismoを武器に片っ端から道を尋ねまわった。しかし、ここでひとつ、失念していたことがあった。ここはスペイン、人はいいが結構適当だ。迷いは深みに至り、適当にバルに入る。地図はなんとなく記憶していて、終盤の道はわかっているのだが、という状況。道を聞いてみると、ああ近所だよ、という反応のあと、気のいいおっちゃんが指折り数を数えながら何本目で左、という形で教えてくれた。バルなのでビール1杯飲んで、ようやく宿へ。なんかクラクラするけど、お酒いれたしなあ。そのまま意識は消えていった。

 

翌朝、頭痛のひどさで目が覚めてしまった。朝8時、腹の減り具合的には朝食に行きたいがどうにも動く元気がわかない。仕方がないのでもうしばらく寝直した。起きると服がびしょ濡れでシャワーでも浴びたのかと言いたくなるくらいの汗だった。どうやらこれは本格的に体調を崩したようだ。10時半、朝食を取りにグランドフロアまで下りたが、なんと指定の時間を過ぎていたらしい。いや、聞いてねえよ。しんどいながら下りた労力を返せ。その程度のことにぶちギレそうになってしまうくらい虫の居所が悪く、そしてそうならざるを得ないくらいには体調の悪さが深刻になっていた。なんとかバスターミナルまで着いたが、もうなにもする気になれない。コインロッカーの使い方もわからないし、係員の説明も語学力の問題じゃなく理解できないし、きっと係員には大変不快な気持ちにさせるくらいには苛立った表情をしていたと思う。われながらなんと情けなく自分勝手なこと、非常に申し訳なく思う。とにかく起きていたら体調の悪さに精神肉体共に悪い方に行くのでバス待ちの間ひたすら寝に寝た。そしてようやくバスの時刻になって、バスでも寝に寝た。

そんなこんなでバレンシアに到着した。ひたすら寝たおかげか、体調は多少上方修正されており、宿に到着した。シャワーで嫌な汗を流して、22時半ごろだったが、早めに寝ることにした。翌朝、すがすがしい日差しがそれとは対照的な地獄の始まりを告げるとも知らずに。

 

さて、満を持して迎えた地獄の日。4.24、行きたい、祭りの、最終日、しかし、いま、布団から、出て動ける、範囲がわずかに、トイレまでの、15メートルで、とにかく、今までに、経験したことのない、腹痛、飲んだ水分が、全て、後ろから出ていく、あの感覚、どれほどの水を飲めど、喉は、すぐに渇く、それは、しばらくすると、後ろから、排泄されていくからだ、しかし、かといって、下痢のときは、水分が、出て行くから、水を飲まねば、脱水に、陥る、そう聞いたことがある、というより、聞いていなくても、この状態、ならば、誰でも、きっと、わかる、そして、ひとたび、トイレへ、なだれこめば、少なくとも、15分は、動けなくなり、出せば、痛みは、軽くなる、という、幻想、そのもとで、長期戦に、いどめど、やつらは、腸の中で、籠城戦に、持ち込みやがる、ああ、なんという絶望、神よ、わたしが、いったい、なにを、したと、いうのか、どうして、この苦しみを、今日、今日に限って、この苦しみを、与え給うのか、ただ、祭りへ、行きたい、だけじゃ、ないか、この痛みを、明日、以降なら、謹んで、お受け、し奉る、ものを、なにより、不幸にも、朝8時に、健康的に、早起き、できたことが、こんな、不健康との、戦いを、幾度となく、繰り返させる、なんと皮肉なことだ。唯一の救いは、前日に宿から徒歩1分の距離に薬局があることを自分の目で確認できていたことだ。なけなしのスペイン語力も鍛え上げたAguralismoもこの体調では運用する余裕もない。できる限り避けたいと思っていた、Google翻訳を、これはもう、動員するしかない。ネットで自分の病状を検索し、それっぽい答えを見つけ、それに対する薬を日本語で発見し、スペイン語に当てはめる。それをスクリーンショットで保存し、なんとか薬局まですべりこみ、画面を見せた。薬局のお姉さんが英語で説明してくれるものを、なんとか理解したが、ありがたいことに説明後にメモ書きもくれた。薬の効果もあいまって、午後10時にはかなり楽になった。翌日にはある程度動けるようにもなったが、大事をとってこの一日電話したり本を読んだりとのんびり過ごした。

 

 

そしてこの日の晩9時ごろ、晩御飯も食べたのでもう布団に入ろうかと部屋に戻ると、マレー系のおっちゃんがちょうど到着したところだったようだ。とりあえず挨拶だけを済ませて、二段の上のベッドで横になったが、なにかを取り出そうと再び床へ降りたときに、おっちゃんも荷物の整理を終えていたらしく、隣の二段の下のベッドから声が掛かった。おっちゃんの名を聞き取れない痛恨のミスを犯したので、フィリップ(仮名)としよう。フィリップさんは40代半ば、30歳ころから10年ほどフィンランドで過ごして、これからスペインへの移住を考えており、バルセロナバレンシア等5つの都市を順に回ってどこにするかを決めているところらしい。そういった自己紹介を一通り終えたのち、今度はぼくのことを聞くべく、質問をした。

「きみはいくつ?」

「21です、今は休んでいますが大学生です」

「それは若いね。専攻はなにを?」

「歴史です、西洋、中世スペイン史です」

「その理由はどういうものなんだい?」

日本では相手によっては答えることを憚りたくなる質問なのだが、一期一会的でのちに尾をひくことも考えられないので、思っていることを答えた。

「日本の書店へ行くと、ここ最近近隣国を含めヘイトを生み出しうる本を目にする機会が増えているように感じます。社会的にもそういう面があります。なんというか、人種や民族、そういう違いがあることは事実で、ルーツの違いが互いへの負の感情の引き金になるのもわからなくはない。だが、だからといってそういうのもひっくるめて、うまく付き合っていく方法はないものか、と。また、世界ではそれらに加え、さらに宗教的対立からも戦争や紛争、悲惨な事柄に発展した事例があって。そういう問題とスペインを絡めて考えた時、ムスリムの支配の開始からレコンキスタが終わるまで、ユダヤ教徒も含め少なくとも3つの異なる宗教をそれぞれ信仰している人たちがいた。そこで彼らがどういう生活を送り、どういう形で互いに関係を築き影響を与えていたのかを学んで、どこか役に立つものはないかなあと、そう思ったからです」

「そういう理由だったのか。ま、このまま話してるのもいいんだけれど、ぼく、ちょっとお腹空いているんだ。一杯飲もう、飲みながら話そう」

 

体調が万全じゃないんだけどな、と思いつつ、けどフィリップさんのゆったりとした、教え諭すような口調に、このまま話を切り上げることはすごく貴重な機会を捨てることではないかと感じた。こうしてグランドフロアへ降りて、フィリップさんのおごりで一杯飲みながら話を続けることになった。どんなときでも、おごりのビールは、うまい。それも、スペインビールなら、一層なおのことだ。

 

「君がそれを選んだ、その理由はよくわかったよ」

改めてうなずき、うまそうにビールを味わいつつ、続ける。

「じゃあ君は歴史を勉強して、どうしたい、どんな仕事をしたいんだ?」

顔が引きつったのが自分でもはっきりわかった。そもそも将来のキャリアに、なんてものを考えて大学になんて入ってないし。ジャーナリズムなどに憧れを持っていたりはするが、現状明らかに社会についての勉強や根本の教養がたりなさすぎて現実味が薄い。

そんなこんなで答えに困っていると、フィリップさんは

「そこまで深刻に苦い顔をされると困るなあ」

と笑いながら言って、続ける。

「まあ、とにかく社会に対してどこかすっきりしないものを持っていて、変えたいと思っているんだろう。じゃあ、いっそ政治家にでもなっちゃいなよ」

「いやあ、そこまではようしませんよ。そこまで責任を持つ気にもなれなければそもそもそんな素質も持ち合わせていませんし」

「まあ軽い冗談だよ。でも悪くない選択肢だと思うんだけどね」

と言って、ビールを一口飲む。ひとつ、ため息をついて、再び話し始める。

「社会を変えたい、良い方にかわって欲しいと思うのなら、まず自分の方も変わらないといけないことをしっかりと自覚しなさい。社会にばかり変わることを望んでいては、君にとって都合の良い社会が良い社会だと勘違いしてしまいかねない。君のなかにある社会に対するものの見方、社会に対するものの聞き方、社会に対するものの感じ取り方。これらすべてを時間をかけて変えていくことが必要なのさ。」

このとき、否定されていないのは理解できていた。そして、言いたいこともなんとなく感じることはできる。ただ、これまでに考えを変えられたなという実感を得たことがあまりないので、感覚的な理解が及ばなかった。そういうときの表情がおそらくいぶかしげで、物思いに耽ったようなものだったのか、フィリップさんは、元気出せよ、と言わんばかりに、ぼくの右肩を、2度、叩いてくれた。

「なにも落ち込むことはないさ。それに、君の今を否定してるわけじゃない。ただ、その意識を常にもっていれば、君の感覚はもっともっと研ぎ澄まされたいいものになると思う。それに君は21歳だろう?まだまだ若いじゃないか。大丈夫だよ」

 

 

そして翌朝、その日はようやくバレンシアの観光ができると喜びに満ちた起床だった。久しぶりに気持ちのいい朝だ。携帯の目覚ましよりも早く目が覚めたらしい。起きて余韻に浸ること数分。目覚ましを聞く。そのとき初めて携帯を開くと、母より一通のLINEが。祖父が肺炎で入院した、と。気づけば右手は握りこぶしをつくり、口元を隠していた。胸の高まり、ざわつき。90歳になる祖父なので覚悟はあったが、そういう問題ではなかった。

いてもたってもいられず、とにかく気を紛らわしたかった。朝食を手に取っても、病み上がりの前日の方が進んだくらいだ。xy座標にはお世話になったが、いくらその偉大な彼が言ったことでも、心身は一元的なんじゃないかと批判したくなった。

なんとかコーヒー1杯にカップケーキをひとつ食べ、とぼとぼと部屋に戻ると、フィリップさんも目を覚ましていた。どうもぼくは顔に出やすいらしく、フィリップさんが心配して声をかけてくれたので、事情を話すと慰めてくれた。

「とにかく落ち着こう。どうにもこうにもできることなんてなにひとつないんだから。ただ快方に向かうことを願うしかないさ」

自分が無敵でなんでもできると思い上がっていたわけではなかったが、こういうときに改めて無力な存在であることを確かめるんだろうな、と思った。

 

幸い、軽度で自分で救急車を呼べるくらいだったらしいとの連絡を受けたが、その前に直近ながら安くで帰国便を取れたので、この日の夕方にはバルセロナへ向かうことにした。フィリップさんには最大の感謝を告げ、宿で別れた。

バルセロナで1泊して、帰国の便に乗った。

 

丸1日近くかかる帰国の途で、今一度、フィリップさんの入っていたことを反芻する。

歴史を勉強してどういかすのか。自分が社会について考えていくひとつの視点たりうるだろう。あとはともかく、まず実際に勉強していかなければならない。

そして、変化しろ、というフィリップさんの言葉。その意味自体はわかるが、結局のところ、未だに理解はできていないと思う。あくまでそういうものなんだと「知っている」だけだ。いずれ「理解できる」日が来ることを望む。そして、それを頭のどこか片隅に、意識すべきだからこそむしろ無意識的に、いつか「理解できている」その日まで。

 

第2章:グラナダ—Bar(バル)や酒飲も、酔う酔う、赤くなりゆく—

どうも、大変長くおさぼりしてましたごめんなさい(*^-^*)ゞテヘヘ

グラナダが二つ目の街。枕草子をもじった”まくらのとおり”、バルでの飲み会の話が一番のポイントです。

、、、には「なまかな。」とか「肌かな。」とかなら押韻できるなと考えたんですが、ピンとこなかったのでやめました。しょーもない裏話は以上で。

 

——————

さて、ようやくバルセロナからグラナダへ到着。夜行バスで14時間、揺られに揺られ、実は北京バルセロナ間よりも長い旅路だったという。

 

長距離バスの駅について、市内行きのバスに乗車。ホステルはカテドラル(大聖堂)の近所ということで、カテドラルの前で下車を目論む。しかし、ぼくには停留所の名前がわからぬ。そうして『地球の歩き方』とにらめっこをしていると、後ろの30歳くらいのお兄さんが声をかけてくれて教えてくれた。なんとありがたいこと。旅先の親切は非常に身にしみる。

 

夜行バスにとことん弱いので、着いたその日は寝て寝て寝て寝て、16時半にようやく活動開始。王室礼拝堂に入堂。この王というのは、カトリック両王と呼ばれる、カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンドの二人。レコンキスタを完結させたこの街で王墓を作ることを決意したためにここにあるらしい。この日の観光はこれだけ。

 

二日目は日帰りでセビーリャへ。スペイン三大祭りの一つとされるセビーリャの”Feria de abrir”を見にいった。歩いて20分は余裕でかかるくらいの長さを誇る会場で、半分はテントがはりめぐらされ、中では家族や親戚で食事を楽しみ、時折フラメンコを踊る人も見た。何より、女性の衣装がとても綺麗で美しく、本当に見事なものだった。馬車に乗っている姿やフラメンコを踊る姿、ただ単に歩いている姿をとってみても、いつでも素晴らしく見えた。もう半分は簡易のテーマパークで、なんともいえないクオリティのようには感じたが、この規模の簡易のものを見たことなど当然なく、それがかえっておもしろみを感じさせた。

 

三日目はカテドラルと、ひたすら丘の方へ坂道を登ってサクロモンテ博物館とアルハンブラ宮殿・・・の見えるサン・ニコラス広場へ。この日が最もイメージしていたスペイン、アンダルシアを感じた日で、カテドラル前では歌う人が前の二日よりも増えていたし、丘へ上がっていく途中では結婚式を挙げたのであろうカップルと、その後ろをぞろぞろあるく100人あるいはそれを上回っているのではないか、というくらいの集団が、先頭の新婚夫婦の真後ろで弾き鳴らされるギターの音色に合わせ陽気に歌って坂道を下りてくるのである。逐一立ち止まっては周りの人を巻き込んで、いやむしろ周りの人が飛び込むというべきか。歌とメロディーと手拍子とにまみれた、幸せを周りに拡散していくような、そんな集団。

これに遭遇したぼくはグラナダの街がとても好きになった。バルセロナは上品で綺麗な街だったけど、グラナダのいい意味であほっぽいというか、大阪に近くて、それ以上のものを感じる、この底抜けに明るく陽気なことの素晴らしさ。カタルーニャとアンダルシアと、スペイン国内でもここまで違うものか、と初めて肌で感じた。

この日の晩は、バルで、仕事を引退してフィリピン(あるいはインドネシア)で悠々自適に暮らし、グラナダで知り合いのお店を借りて個展を開いている、というユニークな方に出会った。これまたおもろい人との出会いを引いたものだと思いつつ、ブログの名前まで聞いたのに、後日調べてもそれっぽいものを見つけられなかった。きっとその日のうちにやっておくべきだったのだろう、名前うろ覚えやったし。多少後悔している。まあそんな風にして、三日目も終わったのである。

 

 

そして、ここからが今回のメインのお話。初日の晩のこと。

 

その晩は日本でのバイト先で知り合ったグラナダ在住で28歳くらいのお姉さんと、その方の知り合いでグラナダで過ごしている日本人留学生のみなさんと、barで酒を飲み、はしごもして、陽気に酔っ払って過ごした。ビールもうまい、ワインもうまい。グラスの中身を全部飲んだら、次もう一杯どう、なんて、そんなの、もらっちゃうに決まってるやん。へへ。

そんな風に気持ちよく酔っ払っているとはいえ、やはりみなさんお年頃、就活というワードがついつい口をついてでちゃうもの。嫌なもんだ。大学の友人たちが就活やだよ、なんてツイートをしているのを見つつ、のんきにふらっとしている身としては。みな留学しているとはいえスペインに骨を埋めようとしている者はいないらしく、日本のあの就活、そして日本での社会人生活ってどんなもんなんだ、なんて話をしていたんだろう。だろう、なんて他人事のようだが、なんせ酔ってるせいもあって詳らかには覚えちゃいないんだから。でもその中で、ひとつ何があっても忘れないであろう、そういう素晴らしいお話を聞かせてもらえた。

 

そもそも、お姉さん(とすると味気ないので以下ちーさんで表記しておく)はどうしてグラナダで生活することになったのか。社会人になって、日本で働いて生きていくことを想定しているぼくらとしては、当然気になる部分だ。ちーさんはワインのグラスを片手に、一瞬、目を伏せ、そして微笑みを浮かて、答えた。

「私は日本じゃもうやっていけなくなって、逃げて、そして、ここに暮らすことにしたの」

答えを聞いたぼくは、じっくり味わおうと思って放り込んでいたチーズを、誓いに反してあっさりと噛まずに飲み込んでしまった。そして、寂しくなった楊枝を置いて、ちーさんを見た。他の4人も、思わず固まっていて、ふと張り詰めた空気になった。ちーさんは大阪出身で、いわゆる典型的大阪人なので、少しコミカルさの度合いをあげて話を続けた。

「きみら、今までバイトをクビになったことってそうそうないでしょ?私、何回もなっててさあ、ほんま」

突如飛び出したお国言葉に、つい口元が緩む。ちーさんいわく、今回集った人たちはさほど接点があったわけじゃなく、留学生同士が仲良くて連れて来てくれた、そんな感じだったらしい。だから、相手がみんな年下といえども、どこか緊張していたようで、そんな余所行きな話し方をしていたところに、大阪弁が出くわして、場の緊張の糸も切れたようだ。大阪弁の強みを改めて感じる。

 

「そんな私も就職できて、しばらくOLして・・・。やけどさっきも言うたように全然あかんポンコツやったし、それは仕事でも相変わらずやってんなあ」

京都のバイト先のスペイン料理屋であったときは、シェフとスペイン語で流暢に会話をしていて、その上、なぜか亀の置物までくれた、気前がよくてかっこいいこのお姉さん。

「それで耐えられへんようなって、スペインに来た」

その日にグラナダ在住と聞いて、春からスペインメインでヨーロッパ放浪するのでお世話になってもいいですか、と尋ねると、二つ返事で連絡先のメモをくれた、どこか憧れてしまうこのお姉さん。

「そして、こっちに来てみたら、こっちの方があってたんかなあって」

思いもよらぬ種類の苦労をなさったんだなあ。苦労していない人はいないとしても、もっとうまく生きて来られた方だと想像していた。人は、見かけによらないものだ。つくづく思う。

「日本は日本でああいう形で国が回っていて、たくさんの組織がちゃんと運営されている。そして、日本で生きていく上で求められるピースっていうものがあって、大抵の日本人はうまく当てはまってる。それはすごいことやと思う。だけど、日本人だからといって、私は求められるピースになることはできなかった。それが、私が日本で苦しんで、日本から逃げ出した理由」

徐々に標準語に戻っていく。大抵の文章は標準語で書かれる。それだけ、じっくりと状況を思い出して整理しながら話してくれているのだろうか。

「日本から逃げたと、そう負い目を感じていたけれど、こっちでできたスペイン人の友人たちに打ち明けたら、どういってくれたと思う?」

ビールのグラスをじっと見つめ、ただ、黙って聞いていた。励ましてくれただろうとは推測できるが、それ以上には思い浮かばない。

「ちーさんは自分に合わないことを理解してさっと離れた。なかなかできることじゃない。君は負い目を感じているようだけど、堂々としなよ、だってちーさんはとても賢い選択をしたんだから」

この国の余裕を悟った。好きなようにいればいい。こうあるべきだ、なんて言わない。そういう余裕。お金などでは表せない、真の豊かさ。言葉にすると陳腐なものに成り下がるけれど。

だから、ぼくはスペインが好きなのか。余裕があるから、豊かだから、明るくて、友好的で、親切で。だから、ぼくはスペインが好きなのだ。

「そんなこんなで10年以上は暮らしてるかな」

ちーさんは居場所を見つけた。居場所を作ってあげられる、この国で。

スペインで10年。どうりで憧れたわけだ。きっとスペインに染まった部分が輝いていたんだろう。

でも、なにか引っかかる。どこか腑に落ちない。そんな気持ちが湧き上がった。すると、

「いやもうこの話は終わろ、36のババアのしんみりした話なんてあかんわ!」

ちーさんは乱暴にトーンを変えて話を切り上げた。きっと照れ隠しだ。だけど、この言葉で違和感の正体がよくわかった。

そして、ぼくは早速先ほどの学びを思い返した。人は、見かけによらないものだ。

  

第1章:バルセロナ—浴びるはタバコの煙と独立の風—

  そんなこんなでバルセロナでかれこれ4日過ごしていた。今、ぼくはグラナダへ向かっているところである。いやあ、特段なにがどうだったってわけじゃないのに、すごく好感を持ったなあ。観光地しか赴いていないと言えばまあその通りやけれども、そないに不便を被った記憶もなくて。強いて言うならタバコの煙をそこかしこで浴びたくらいかなあ、、、笑

 

 2日目は市場で昼から1杯やった後、カテドラルを含むゴシック地区をふらふら歩きまわって、港まで散策するなど非常に歩き回ったような。22時過ぎにはもう寝てた。ぐっすり。びっくり。3日目は朝の散歩がてらにサグラダ・ファミリアまで宿から歩き(片道20分ほど)、シエスタを取ってからモンジュイック地区へ。肝心の城へは乗るやつを間違えていけずじまい。なのでモデルニスモ建築を巡って外観を楽しみ、再びサグラダ・ファミリアへ帰還しライトアップされた姿を鑑賞。ちょっとがっかり。うーん、どうやら期待値が高すぎたみたい。あ、でも目の前の池に反射して2つになってたのは良かったかなあ。

 そして4日目の今日は昨日の失敗を生かし城までちゃんと行き、前日(カタルーニャ美術館)よりも、もっと高いところから、街を、港を、海を、眺めた。城の中では軽い歴史館的な展示もあり、スペインにもナチ関係の場所や街にハーケンクロイツの垂れ幕もあったことなど、ナチの影響が結構大きかったのだと初めて知った。まあヒトラームッソリーニの台頭した時代は内戦やフランキスモの始まった時期に重なるわけで、さほど驚きはなかったけども。そして、今、バスの中にいる。バスで騒がしい乗客に真後ろのおばあちゃんが怒りの訴えを起こし、隣の女性はもうあかんわ、みたいな顔をすれば、最終的に運転手から忠告がなされるという状況。どちらもうるせえ。カオス。乗ってからまだ45分程度、残り時間は13時間以上。あれ、これ大丈夫かしら。

 

 さて、ここまで観光地行ったくせに写真もなくつらつらと書いた785字を読んでくださった皆様。初日はどうだったのかという疑問をお持ちでないでしょうか?

 

 という大前提で今から初日の話を書いていこう。なので疑問を持っておいてくださいね。ぼくにとっては、この初日こそが、バルセロナで一番重要な1日だったと思う。もちろん、他の日にも問題意識を持つ場面はあった。2日目は観光客も多く、特に観光地の集まった地区を訪れたので、シカゴでかつて見たような、物乞いをする人々を何度も何度も見ました。さすがに大都市、やはり貧困も目にしてしまった(P.S.ちなみにグラナダにも予想通りたくさんいた)。そのうち日本の路上にも増えてくるのかなあ。日本は比較的格差が少ないから見ないのか、あるいは文化的ななにかの違いで格差自体は同次元なのか、どっちなんだろう。

 

 で、バルセロナ初日に話を戻そう。ついてきてね。ぼく自身話がどう転ぶかわかんないんだけど。バルセロナ、ひいてはカタルーニャの現状として、独立を求める熱が高まっている。もちろん、全住民が賛成というわけでもない。かといって、ほんの一部というわけでもない。

 海洋博物館にいこうと思っていたところ、最寄りの駅で降りると大量の人、それもみんな黄色の服を着て。老いも若きもなく、黄色の服を着て、ある人はカタルーニャの旗を羽織い、またある人はスローガンや訴えを書いた旗を持ち。胸に黄色のリボンをつけている人の数もとても多く、メッセージつきの缶バッジもあって。その中身としては、”LLIBERTAT PRESOS POLITÍCO!”(自由を、監獄の中の政治だ!)といった言葉がよく見られた。シャツの前面に”Sí”と、その周囲を世界の他言語で取り囲んだものもあった。これらはたくさんの人が使用していたが、他にも個人的に作成したであろうシャツも多々あったし、さまざまな方法で訴えかけていた。ぼくが一番ユニークだなあ、と思ったのは黄色の囚人服を着た女性。すごくわかりやすい。なるほど。さて、ここでじゃあなぜ黄色なのか、黄色にはどういう意味が込められているのか。おわかりですか?

 

 その答えは、参加者のおばあさんが教えてくださった中にありました。広場のデモ行進を眺めつつ、フランスパンをかじってのんびりしていると、隣に行進の途中少し休みたそうなおばあさんたちが来たので、横にずれてスペースを譲ってあげた。隣にいたおばあさんが英語で話しかけてくださったので、多少会話をしていた。すると、彼女は、

「この行進を見て、あなた、どう思う」

と明るく笑顔で、それとは裏腹に難しい質問をした。返答に困ったぼくは、

「うーん、すごく熱意を感じるますよね、えへへ」

と、はぐらかした。このままではなんかばつが悪いなと感じたぼくは、

「そういえば、皆さん黄色を着てはるけどこれどういう意味があるんですか、黄色ってカタルーニャの色なんですか」

とストレートに聞いてみた。

「黄色がカタルーニャの色?それは全然、違うわよ」

「え、ああそうなんですか、それは失礼しました」

「黄色はね、カタルーニャがスペインに抑圧されていることを象徴する色なのよ」

とおばあさんは穏やかに答えた。いや、こら知らんかったとはいえほんま失礼な間違いしてもうたなあ、と思うぼくを尻目に彼女は続けて

「私たちは、スペイン人。でも、同時に、私たちはカタルーニャ人でもあるの。彼らもそう。でも、スペイン政府は、君たちはスペイン人でしかない。そう言うのよ。カタルーニャ人であるとは認めてくれないの」

そして、これまで見たことのなかった青い三角と白抜きの星入りのカタルーニャ旗を指差し、

「あの旗はにね、私たちの理想が込められているの。青は、自由の色、でしょう?そう、あの青こそが、自由あるカタルーニャなの。」

と。近くにはスペインの公式の建物もある場所なので、本来のカタルーニャ旗はすぐに見つけることができた。なるほど、本来は黄色に赤のストライプ。

「あなたは日本人で学生さんかしら?」

「ええ、そうです」

「そうなの、いらっしゃい、こんな遠いところまで大変だったでしょう。ところで、何を学んでいるの?」

「あー、えっと、西洋史、ヨーロッパの歴史です」

「あら、歴史ね、それはいいじゃない」

「まあ、その、ありがとうございます」

あまり自信をもって西洋史と答えられないところに日頃の不勉強を悔やむ。歴史に関して深堀りされたらかなんのやけど、と思った。

「あなた、このカタルーニャは、もともとスペインとは別の国だったことは知ってる?」

「ええ、まあ一応知っています」

「そう。じゃあ中南米の国々がスペイン領だったことは?」

「もちろん知っています」

数少ない確実に知っていることなので、もちろんという言葉も口をついた。だけど、すぐに、常識中の常識を知っていることを誇らしげにした自分を恥じた。

アメリカ大陸の国々は19世紀以降にスペインから独立していったでしょう。アルゼンチン、メキシコ、ベネズエラ…そして最後にキューバ。歴史の教科書ではキューバがスペインから独立して、スペインの植民地はすべて解放された、とされているわ。だけど、私たちの国、カタルーニャは、いまだに、解放されていない。教科書は間違っている。すべて、じゃない」

ひと呼吸、間をとった。そして続けた。

「まだ、本当に、本当の意味で、すべて終わっているわけじゃあないのよ。私たちのカタルーニャが、まだ残っているじゃないの」

 

 その後は適当な話をしていたが、十分に休息もとれたようで、おばあさんたちは再び行進に参加していった。着いて早々、一番見たかった、聞きたかった話が聞けたことは本当に幸運だ。実際に五感を通して感じてみたかったんだから。彼女らとの会話を通じ、その思いは多少理解できたと思う。だけど、一体、この問題はどう進展し、どこに落とし所ができるんだろうか。彼女らの軽い足取りに、明るい未来を希望する思いを感じ取りつつも、ぼくはどこか、来る前よりも重く、すっきりしない気持ちで、ぼんやりと、他の黄色に紛れながら小さくなっていくその後ろ姿を眺めていた。

 

ーーー私たちのカタルーニャが、まだ残っているじゃないのーーー

 

この言葉が、何度もよぎる。

 

 

 

(注:おばあさんは話の流れ上キューバが最後とおっしゃっていたが、実際にはモロッコに1969年に返還した土地が最後)

 P.S. 次回はグラナダ編。

2018.4.15-18

序章:ついに来たる旅立ちの4.14

なんやかんやで出発の日になっちゃいました。

北京でバルセロナ行きへのトランジットの待機時間に書いています。

ちなみに投稿はスペインついてから1週間は過ぎた日です。わろた。

 

 

◯いざ、出国せん

15時半、ようやく家を出て母ともしばしの別れ。月単位で家を出るのは初めてなので不安そうな表情でしたが、たぶんそれはぼくも同じ。

 

高校の時の1番仲良かった友人が関西空港まで見送りに来てくれました。感謝感激感動。

正直、誰も来ないだろうなあと。いや、一瞬だけ、お前が来ないのではないかと疑ってしまった。右の頬を殴れ。

親友の名誉のために一応断っておきますと、彼は友人想いで勇者ではあっても、布を渡す必要はございません。安心してください、履いてますよ(これはこれでパンツ一丁疑惑が出てくるような)。

 

 

オープンチケットで行こうとしたら荷物を預ける際に

「往復あるいは第三国(今回の場合スペイン以外)への航空券をお持ちでないので、入国を拒否される可能性がございます」とのことです。

「あ、いや、絶対にされるというわけじゃあないんですよ!」

というお言葉。「確実にされる」よりも、「可能性がある」っていう方がむしろ怖いんよ、お姉さん。

お姉さんを困らせた挙句、見送りにきてくれた友人とほとんど話せずじまいになってしまいました。やっちまった。

 

もしはねられそうになったら、モロッコの行きを飛行機にしちゃいましょうかね。帰りは船でジブラルタろうかと。

さらっといけたら往復船かなあ、帰りを一気にリスボンとかにしようかなあ、そんな感じです。

 

どうやら、そもそも世界の常識が根本的に抜け落ちていたらしい。我ながら驚き。確かにこれまで自分で航空券とったりしていった、ベトナムやタイは「往復航空券」「パスポートの残り有効期限が半年以上」「宿泊先が決まっている」というような規定はあった。「最初の宿だけ取っときゃええで」の意味にはそういうのも含まれてたんかなあ。

 

 

◯深圳航空に乗って、ひとまず北京へ

まあとりあえずそんなこんなで北京行きに乗ることはできた。横の方は同い年くらいの中国人の女の子で北京大学に通っているらしい。彼女の名は、スジン(たぶん、実ははっきりと聞き取れてない、、、)。話してみてすぐ感じたこと、きっと、てか、ほぼ確実に、この子スーパーエリート。後ほど判明することだが、中国で一二を争う大学らしい。いやあ、すごいわ。英語の発音めちゃくちゃ綺麗やし。わりとフランクに話しかけてくれて、非常に良い時間をくれた、ありがたい。ちなみに初の海外旅行で日本を選んでくれたらしい、ほんまおおきに。神戸がめっちゃよかったそうな。ぼくも神戸の街好きやわ、大阪よりも。京都はそれよりももっと。でも、それでも、なんやかんやで心の拠り所は、たぶん大阪。

 

深圳航空がどんな会社かあんまり知らずに適当に取ったものの、機内食が出てきたり、降りる前に330mlのミネラルウォーターをくれたりと結構サービス良くて満足。全日空と提携しているみたいなので、結構ちゃんとしたところやったみたい。各席にTVが付いているわけではありませんでしたが、上から降りてくるタイプのTVでずっと映画が流れていて、おもしろかった。

「羞羞的鉄拳」(3文字目間違ってるかも)とかいうタイトルで、ボクサーの男が女の子と入れ替わっちゃうことから始まって、女の体に入ったボクサーが自らの体に宿る女を鍛えつつも、もともとあった男の方の因縁に女も巻き込まれて(体は男やけど誰も気づいとらんししゃーない)、ハチャメチャもありつつ、徐々に恋愛対象としても惹かれていく。最後はボクシングの試合で男の体をした女が戦い、女セコンドとしてサポートしてくれた男の力も借りて勝利を収め、恋愛も成就するという話でした。いやあ、この前日本のアニメ映画で似たようなん見たような、見てないような。思い出せない、あの映画の名は。まあでも体は入れ替わったままで終わるので違うといえば違うか。ちゃんと見てないので間違っているかもしれません。ぜひ、皆さんも深圳航空を使い、この映画を見てみましょ(適当)

 

そんなこんなで話は戻って、着陸直前に結構な腹痛に見舞われてしまったものの、コールで呼んだCAさんや隣の中国人の男性(彼も北京大学らしい)と中国語で会話していたため、何がなんやらという状況に。しかし僕も言うてもさすがに21歳。ああ、そういう日なのか、難儀なこっちゃなあ、となんとなしに察しましたが、あくまでも推測。だから、おそらくポカンとした顔をしていたのでしょう。彼女の方も、横の心配かけた日本人が中国語をさっぱり理解しておらぬ、ということを理解したらしく、君にも状況説明しとくとね、みたいな感じで”Ah, it’s Virgin Stomachache.”「ま、もう落ち着いたし、大丈夫やで」と述べていて、ああ、英語ではそんな言い方をするのか、と学んだ北京時刻午後の10時半。まあ、聞き間違いをしていなければ、ですが。

 

 

◯着いたよ北京空港

税関のところでトランジットの僕と帰国の彼女は別れることになりました。一期一会。いい出会いだった。

カタカナって結構判読するの難しくて苦手。イルクーツクを今の今までイクルーツクやと思っていた。Irkutskという綴りを北京空港で目的地の表示を見て初めて気づく。悲しいカナ、こういう間違いをわりとしがち。有名な歌手の名前も、アナリア・グランデなのかアリアナ・グランデなのか、ぶっちゃけ未だにわからへん。

そういえば昔、初めて分数を習った際に、その読み方に結構苦戦したような。文字上では正解が出せてるものの、先生に当てられて口頭で答えると逆と言われることがわりと多かったなあ。文章は上から読むんだから、その読み方をそのまま当てはめたんかな。

それにしても、カタカナが時折暴れてしまう、そういう体質のわりによく世界史選択で今現在西洋史の研究室選んだよなあ。得手不得手と好き嫌いはまた別問題ということ。

 

 

◯休学の理由

次の搭乗時刻までまだ時間はあるので、ようやく休学に至った経緯を書けそうです。いやあ、めでたいな。

と言いたいのですが、一応記事をわけておきましょう。さすがに長くなりすぎました(前回も言うてたような)。2500文字を超えちゃいましたよ。レポートよりも文字数書いてるなあ。3回後期はレポートという名の資源ごみをいつもより低質で生成したので、単位ボロボロかと思いきや大抵取れていて卒業まで卒論、卒論ゼミと4単位というところまできました。はてさて、大学で一体何を学んできたんだろう。そして残る2年で何を学ぶんだろう。というわけで、次回は、バルセロナでの日々について書いていきます。きっと休学の理由にも触れることでしょう。次のはすぐあげるつもりなのでどうぞよろしく。

いつの間にやら出国直前になりました。

どうも、いつの間にやら出国の5日前になりました。

春休みは懐かしい友人と顔を合わせることが多く、あっという間に過ぎました。2月半ばには友人を訪ねるべく高校の同期4人と高知へ、翌週には武者修行時のメンバーに会いに東京へ。3月は大阪で友人に会ったり、京都では追いコンやバイトなど何かと毎日予定がある日々を過ごして、末には久しぶりにサークルの合宿に参加しました。

そんなこんなで迎えた4月、今月は初日から風邪を引いて2日間寝込み、車に乗れば擦り傷を作り、自転車に乗ってはブレーキが故障するという日々で、ありがたいことに厄払いは順調に進んでおります。そのお陰か準備が滞っております。宿題を期限ギリギリに成し遂げる性分が遺憾なく発揮されていて恐ろしいなあ。まあなんとかなるでしょ(*^-^*)ゞテヘヘ なんとかしなきゃなあ、、、

全員とは行かなくともある程度会っておきたい人と直接挨拶をすますことができたということもあって、充実した楽しい春休みを過ごせました。来年はおそらく穏やかならぬ日々でしょうね、、、

 

春も来てからしばらくしてようで、近所の桜も淡い桃色から緑に模様替えしております。今年も桜を見に出かけることなく終わっちゃいました。ただ皆さんのSNSでの投稿で楽しめましたし、まあええかなと。ありがとうございます。

葉桜といえばもう新学期が始まる頃ですね。就活や履修などの話題が飛び交う中で、僕はついに休学生でびゅーというわけです。

この1年どうなるんやろう?という言葉が、かつ消えかつ結びて、、、

出国を目前に、これからの日々への、期待、不安。どうやら彼らは一心同体らしく、どちらかが膨らむと、ツレも膨らんでくるようです。なので、彼らが膨らみすぎることのないように、いい塩梅でいなす今日この頃です。

 

実は休学の理由を今回書こうかなと思っていたのですが、つらつらっと書いてたら本題までが長くなっちゃいましたね(*^-^*)ゞテヘヘ

というわけで次回に書きます。笑

 

簡単に予定を書いておくと

14日(日本時間) 関空より出国

15日朝(現地時間) バルセロナにてスペイン入国

15日〜17日朝 バルセロナ

17日夕方〜18日 バレンシア

19日グラナダ:日本人の知り合いの方と夕食を、、、

20日セビーリャ:Feria de Abril を日帰りで

21日グラナダ

22日(〜23日)アルコイ(東部):Fiesta de Moros y Cristianos de Alcoy を見に行きたい

 

以後はマドリッドコルドバ、セビーリャ、

ジブラルタル海峡を渡ってモロッコへ、

ポルトガルに行ってポルトリスボンなど。

この辺をうまい具合に組み合わせて、それからイギリスへ行こうかなって感じです。

他にイベリア半島でオススメがあればまた教えてくださいな。

 

じゃあ今日はこの辺で。