¡¡¡ Aqui !!!

放浪が終わっちゃったので、日本でまとめていくスタイルで確定しました。

第2章:グラナダ—Bar(バル)や酒飲も、酔う酔う、赤くなりゆく—

どうも、大変長くおさぼりしてましたごめんなさい(*^-^*)ゞテヘヘ

グラナダが二つ目の街。枕草子をもじった”まくらのとおり”、バルでの飲み会の話が一番のポイントです。

、、、には「なまかな。」とか「肌かな。」とかなら押韻できるなと考えたんですが、ピンとこなかったのでやめました。しょーもない裏話は以上で。

 

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さて、ようやくバルセロナからグラナダへ到着。夜行バスで14時間、揺られに揺られ、実は北京バルセロナ間よりも長い旅路だったという。

 

長距離バスの駅について、市内行きのバスに乗車。ホステルはカテドラル(大聖堂)の近所ということで、カテドラルの前で下車を目論む。しかし、ぼくには停留所の名前がわからぬ。そうして『地球の歩き方』とにらめっこをしていると、後ろの30歳くらいのお兄さんが声をかけてくれて教えてくれた。なんとありがたいこと。旅先の親切は非常に身にしみる。

 

夜行バスにとことん弱いので、着いたその日は寝て寝て寝て寝て、16時半にようやく活動開始。王室礼拝堂に入堂。この王というのは、カトリック両王と呼ばれる、カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンドの二人。レコンキスタを完結させたこの街で王墓を作ることを決意したためにここにあるらしい。この日の観光はこれだけ。

 

二日目は日帰りでセビーリャへ。スペイン三大祭りの一つとされるセビーリャの”Feria de abrir”を見にいった。歩いて20分は余裕でかかるくらいの長さを誇る会場で、半分はテントがはりめぐらされ、中では家族や親戚で食事を楽しみ、時折フラメンコを踊る人も見た。何より、女性の衣装がとても綺麗で美しく、本当に見事なものだった。馬車に乗っている姿やフラメンコを踊る姿、ただ単に歩いている姿をとってみても、いつでも素晴らしく見えた。もう半分は簡易のテーマパークで、なんともいえないクオリティのようには感じたが、この規模の簡易のものを見たことなど当然なく、それがかえっておもしろみを感じさせた。

 

三日目はカテドラルと、ひたすら丘の方へ坂道を登ってサクロモンテ博物館とアルハンブラ宮殿・・・の見えるサン・ニコラス広場へ。この日が最もイメージしていたスペイン、アンダルシアを感じた日で、カテドラル前では歌う人が前の二日よりも増えていたし、丘へ上がっていく途中では結婚式を挙げたのであろうカップルと、その後ろをぞろぞろあるく100人あるいはそれを上回っているのではないか、というくらいの集団が、先頭の新婚夫婦の真後ろで弾き鳴らされるギターの音色に合わせ陽気に歌って坂道を下りてくるのである。逐一立ち止まっては周りの人を巻き込んで、いやむしろ周りの人が飛び込むというべきか。歌とメロディーと手拍子とにまみれた、幸せを周りに拡散していくような、そんな集団。

これに遭遇したぼくはグラナダの街がとても好きになった。バルセロナは上品で綺麗な街だったけど、グラナダのいい意味であほっぽいというか、大阪に近くて、それ以上のものを感じる、この底抜けに明るく陽気なことの素晴らしさ。カタルーニャとアンダルシアと、スペイン国内でもここまで違うものか、と初めて肌で感じた。

この日の晩は、バルで、仕事を引退してフィリピン(あるいはインドネシア)で悠々自適に暮らし、グラナダで知り合いのお店を借りて個展を開いている、というユニークな方に出会った。これまたおもろい人との出会いを引いたものだと思いつつ、ブログの名前まで聞いたのに、後日調べてもそれっぽいものを見つけられなかった。きっとその日のうちにやっておくべきだったのだろう、名前うろ覚えやったし。多少後悔している。まあそんな風にして、三日目も終わったのである。

 

 

そして、ここからが今回のメインのお話。初日の晩のこと。

 

その晩は日本でのバイト先で知り合ったグラナダ在住で28歳くらいのお姉さんと、その方の知り合いでグラナダで過ごしている日本人留学生のみなさんと、barで酒を飲み、はしごもして、陽気に酔っ払って過ごした。ビールもうまい、ワインもうまい。グラスの中身を全部飲んだら、次もう一杯どう、なんて、そんなの、もらっちゃうに決まってるやん。へへ。

そんな風に気持ちよく酔っ払っているとはいえ、やはりみなさんお年頃、就活というワードがついつい口をついてでちゃうもの。嫌なもんだ。大学の友人たちが就活やだよ、なんてツイートをしているのを見つつ、のんきにふらっとしている身としては。みな留学しているとはいえスペインに骨を埋めようとしている者はいないらしく、日本のあの就活、そして日本での社会人生活ってどんなもんなんだ、なんて話をしていたんだろう。だろう、なんて他人事のようだが、なんせ酔ってるせいもあって詳らかには覚えちゃいないんだから。でもその中で、ひとつ何があっても忘れないであろう、そういう素晴らしいお話を聞かせてもらえた。

 

そもそも、お姉さん(とすると味気ないので以下ちーさんで表記しておく)はどうしてグラナダで生活することになったのか。社会人になって、日本で働いて生きていくことを想定しているぼくらとしては、当然気になる部分だ。ちーさんはワインのグラスを片手に、一瞬、目を伏せ、そして微笑みを浮かて、答えた。

「私は日本じゃもうやっていけなくなって、逃げて、そして、ここに暮らすことにしたの」

答えを聞いたぼくは、じっくり味わおうと思って放り込んでいたチーズを、誓いに反してあっさりと噛まずに飲み込んでしまった。そして、寂しくなった楊枝を置いて、ちーさんを見た。他の4人も、思わず固まっていて、ふと張り詰めた空気になった。ちーさんは大阪出身で、いわゆる典型的大阪人なので、少しコミカルさの度合いをあげて話を続けた。

「きみら、今までバイトをクビになったことってそうそうないでしょ?私、何回もなっててさあ、ほんま」

突如飛び出したお国言葉に、つい口元が緩む。ちーさんいわく、今回集った人たちはさほど接点があったわけじゃなく、留学生同士が仲良くて連れて来てくれた、そんな感じだったらしい。だから、相手がみんな年下といえども、どこか緊張していたようで、そんな余所行きな話し方をしていたところに、大阪弁が出くわして、場の緊張の糸も切れたようだ。大阪弁の強みを改めて感じる。

 

「そんな私も就職できて、しばらくOLして・・・。やけどさっきも言うたように全然あかんポンコツやったし、それは仕事でも相変わらずやってんなあ」

京都のバイト先のスペイン料理屋であったときは、シェフとスペイン語で流暢に会話をしていて、その上、なぜか亀の置物までくれた、気前がよくてかっこいいこのお姉さん。

「それで耐えられへんようなって、スペインに来た」

その日にグラナダ在住と聞いて、春からスペインメインでヨーロッパ放浪するのでお世話になってもいいですか、と尋ねると、二つ返事で連絡先のメモをくれた、どこか憧れてしまうこのお姉さん。

「そして、こっちに来てみたら、こっちの方があってたんかなあって」

思いもよらぬ種類の苦労をなさったんだなあ。苦労していない人はいないとしても、もっとうまく生きて来られた方だと想像していた。人は、見かけによらないものだ。つくづく思う。

「日本は日本でああいう形で国が回っていて、たくさんの組織がちゃんと運営されている。そして、日本で生きていく上で求められるピースっていうものがあって、大抵の日本人はうまく当てはまってる。それはすごいことやと思う。だけど、日本人だからといって、私は求められるピースになることはできなかった。それが、私が日本で苦しんで、日本から逃げ出した理由」

徐々に標準語に戻っていく。大抵の文章は標準語で書かれる。それだけ、じっくりと状況を思い出して整理しながら話してくれているのだろうか。

「日本から逃げたと、そう負い目を感じていたけれど、こっちでできたスペイン人の友人たちに打ち明けたら、どういってくれたと思う?」

ビールのグラスをじっと見つめ、ただ、黙って聞いていた。励ましてくれただろうとは推測できるが、それ以上には思い浮かばない。

「ちーさんは自分に合わないことを理解してさっと離れた。なかなかできることじゃない。君は負い目を感じているようだけど、堂々としなよ、だってちーさんはとても賢い選択をしたんだから」

この国の余裕を悟った。好きなようにいればいい。こうあるべきだ、なんて言わない。そういう余裕。お金などでは表せない、真の豊かさ。言葉にすると陳腐なものに成り下がるけれど。

だから、ぼくはスペインが好きなのか。余裕があるから、豊かだから、明るくて、友好的で、親切で。だから、ぼくはスペインが好きなのだ。

「そんなこんなで10年以上は暮らしてるかな」

ちーさんは居場所を見つけた。居場所を作ってあげられる、この国で。

スペインで10年。どうりで憧れたわけだ。きっとスペインに染まった部分が輝いていたんだろう。

でも、なにか引っかかる。どこか腑に落ちない。そんな気持ちが湧き上がった。すると、

「いやもうこの話は終わろ、36のババアのしんみりした話なんてあかんわ!」

ちーさんは乱暴にトーンを変えて話を切り上げた。きっと照れ隠しだ。だけど、この言葉で違和感の正体がよくわかった。

そして、ぼくは早速先ほどの学びを思い返した。人は、見かけによらないものだ。